わたしは、3月11日を 3.11 と呼ぶことに抵抗を感じている。
記号化されているようで、嫌なのです。
あの日から3年
テレビを観て、涙を流していた。
あの日から、震災で大切な人を失ってしまった方々の話を聞いては
涙が溢れてくる。
胸が苦しくなる。
でも…
それから30分もすれば、普段の生活に戻っているわたしがいる。
わたしが、涙をいくら流したとしても誰一人として助けることなどできない。
-わたしって いい人- と思う自己満足 自己陶酔でしかないのかも…。
そう思うと
テレビを観ていることが嫌になって消した。
岩手日報の 忘れない の文字に目が留まった。
伊集院静さんの寄稿が載っていた。
祈ろう、 すべての人へ
あの日から三年目の朝が来た。
わずかな手を差しのべることと、祈ることしかできないけれど、
それが何より、人が成す美しい行動であり、命の尊厳をわかってもらえることだと、
私は思う。
私たちは祈ることしかできないけれど、あなたが立ち上がり、歩き出し、
空を見上げ、どんな言葉でもいいから声を上げてくれることを切に望んでいる。
三年目の朝が来た。目を覚ましたら、私もあなたも祈ろう。
三年目の太陽が、青空が、雲が、波が見えたなら、
私たちは祈ろう。
三年目の星がまたたいたなら、私たちは祈ろう。
すべての人のために…。
いいの…?
涙を流すことしかできなくても、祈ることだけしかできなくても、いいの…?
被災地の方が話していた。
-私たちを忘れないでいて欲しい、それだけでいいから-
それだけで いいの…?
伊集院静さんは、ご自身の辛い別れの経験から
-辛い苦しい時間の積み重ねこそが、新しい光への道程なのです-
とメッセージを寄せています。
私も、9年前に父を亡くしました。
父が亡くなった直接の原因は、私に有り
後悔の念は一生持ち続けると思いますが、それでも辛い苦しい時間の積み重ねが、
私の気持ちを楽にさせてくれています。
でも…
被災地の方々は、
愛する人を失った哀しさ
故郷を失った哀しさ
家や仕事を失った哀しさ
想い出を失った哀しさ
哀しみがあまりに深すぎます。